「クマ」



扉の覗き穴を覗いてみると

そこにはニンジンが立っていた






もうすぐ演劇部の発表会だ

僕はなんとそこで主役のクマ役に抜擢された

脚本は二個上の脚本家志望の先輩で、内容は、クマが手芸の先生になる為にまずは政府を倒す所から始めるという、なんとも大胆なお話だった

僕はそれの主役のクマ役を頂き、クマの気持ちがわかるようにと、本物のクマと戦う毎日だ

生傷を作ってはお礼のシャケをあげている





ある日

そんな毎日を覆すような出来事が起こった

いつも降りる駅で、わけのわからないおっさんが『キュウリで頭を叩いてくれ』と懇願していたのだ

僕は怖い事に関わりたくなかったので遠目からしかみていなかったが、僕と同い年で同じ体格くらいの青年に頼みこんでいた

青年は完全に笑いをこらえている様子だったが、その事にオッサンは気付いてはいなかった

おそらく青年に悪意がなかったからだろう

その青年は気持ちいい音をさせてオッサンの頭をキュウリで叩き、颯爽と帰っていった

最後はちょっとモメていたようだったが、あまりにもいい音が出ていたのでそんな事関係なく見ていて気持ちいい

僕は

『僕も役者の端くれなのだから、普通に生きていたらやる機会の無い事を率先してやるべきなのかな～』等と思いつつ、岐路についた






自宅へ帰り、一人暮らしの部屋で数少ないセリフを練習している時に事件は起こった

クマの気持ちになって、『この淫乱女！！』と言っていると、僕を呼び出すチャイムがなった





『ピンポーン』





クマの気持ちのまま『ガルルルル』等と言いながら玄関の扉の覗き穴を覗いてみると

そこにはニンジンが立っていた





僕は目を疑ったが、それは完全にニンジンだ

ニンジンが『顔、兼、体』になっていて、細い手足が生えている

それはまぎれも無くニンジンだ

チャイムを押すのに身長が足りないため、プルプル震えながら長い枝で押しているが

それはまぎれも無くニンジンだ





ニンジンはこう言っていた





『先ほどは助けて下さり、本当にありがとうございました』

か細い声ではあるが完全に日本語を話している

ニンジンはさらにこう続けた





『もう少しで、野菜界では一番の不運とされる【オッサンの頭で叩かれ死】してしまう所でした』

そう言えば青年とオッサンは最後何やらニンジンを取り出してモメていたので、おそらくこのニンジンは人違いでここに来てしまったのだろう

人違いだと言い、追い返すのは簡単だが、ここはやはり『普通に生きていたらやる機会のない事』なので先ほどの反省をいかして出てみる事にした





我が家に招きいれられたニンジンは一言

『僕はここで結構ですので』

といい、僕のナイキのスニーカーの中に入ってしゃがんだ

それは野菜界では遠慮に入るのか等と関心していると、ニンジンは話始めた





『先ほどは本当にありがとうございました、是非お礼をさせては頂けませんか？』





僕はお礼とは何か気になったのだが、聞いてしまうのも野暮ったいので聞かずに返事をした

『ありがとうございます、たいした事はしていませんが』




『それでは奥の部屋を使わせて頂きますが、決して覗かないで下さいね』

ニンジンはそう答えた

どこかで聞いた事のある話だ




待つ事にした




待った




待った







結構待ったのに何の返事もない

僕はそっと奥の部屋の襖を開けてみた




そこには誰もいなかった




僕は

『これはもしかして夢なのかな』と思ったが

決して夢などではなかった




一瞬夢でかたずけようとした僕に

通帳と印鑑が無いという現実が襲いかかるのは、これの丁度一分後のお話だ