「黒いアレ -ノンストップ思春期2-」
ときどき、わたしの目の前に黒い物体が現れる。物体っていうか、ボウリングみたいな球体だけど、とにかくでかい。ていうか、硬い。こちこちしてるし、かちかちしてる。壁などに半分埋まった状態で出現することもあるし、道を塞ぐように突然出てくることだってある。そんなものが目の前に現れるのだから、すごい邪魔だ。普通はよけて通り過ぎようとするけれど、それだって無理なこともある。
だけど、それって、わたしにしか見えてないっぽい。見えてないどころか、みんなはずかずか黒いアレの中を通りすぎる。普通に抵抗なく、何にも気づかずに通過するのだ。わたしだけ、むちゃくちゃ硬い黒いアレにはばまれる。周りのみんなは黒いアレのことにちっとも気づいてないので、ちょっとおかしいんじゃないか、と思うけど、多分、わたしのほうがおかしい、ってことなのだろう。わたしは急に目の前に、ずずーんと現れた(本当は音もなく出てくるんだけど)、黒い球体をよけるように歩く。頭を下げたり、腰をかがめたり、飛び越えたり、あるいは迂回しなくてはならなかったり、とにかく黒いアレを回避しなくちゃならない。そんなんだから、周りの友達とかからは、ちょっとどころか、かなり頭がおかしいと思われているようだ。それも天然とかそういう範疇で見られてるから、これはラッキーなのかアンラッキーなのか、よくわからない(多分、そのどっちもだ)。モモ、すぐおかしい動きするよね、とか、なんかお祈りしてるみたいに動くんだけど、とか言われて、みんなから笑われる。モモ、うけるー、とかも言われる。わたしは、そうかなあ、ちょっとよくわかんないけど、などと言って、黒いアレについて何も話さず、そういうことにしておく。そのほうが楽だから。だからって、無条件で天然扱いになるのもちょっと悲しい。でもまあ、黒いアレとか関係なく、リアルに天然的行動をしてしまったときとかは、元からそういうキャラになってるから話は簡単で、お約束みたいに笑いが起きるから、救われてる部分はあるんだろうけど。
というわけで、黒いアレに関してわたしは孤独だ。わたしの世界はときどき、勝手に限定されてしまう。みんなが当たり前のように歩いているところに黒くて硬いアレ(とか書くと、ちょっとエロい!!! って思うけれど、わたしは、男の子とヤバい雰囲気っていうか、実質エロいことになったことがないので、よくわからない。でも知識としては、アレがアレだとかどうとかは知っている! 興味は、ちゃんとある! 本物を見たいとかそういう意味じゃなくて、興味が、ちゃんとある!)が現れると、わたしは身体をかがめて歩かなくてはいけないし、最悪の場合、一歩も前に進めなくなってしまう。わたしと友達の間を黒いアレがさえぎってしまうことだってある。そういうときは、わたしは、ちょっと、ごめん! 急にお腹痛くなった!(なんか、声はいくらでも貫通するらしい。黒いアレに視界を塞がれたら、向こう側は全然見えないんだけど)と大きな声で叫ぶ。そうすると、友達とかは、モモまた例のやつ? とか言って、例の何なのかわからないけれど、わたしにはおなじみの突然の腹痛だとかあるいはもっと直接的なトイレタイムとか重い生理とか、そういう風に思ってるらしく、そんなことをいきなり大声で叫んだりすることもまた、わたしが天然とされている、ゆえんなのだろう。
とにかく、わたしはときどき、みんなと隔たれてしまう。ヤッピーともヤスちゃんとも、里香とも、物理的に黒いアレに分断されてしまって、置いてけぼりになったりする。結構、ほんとに頭が本格的にやばい、って思われてるかもだけど、みんなそれなりにやさしかったり大人だったりするから、なんとかわたしは彼女たちと友達でいられる。ありがたい。だけど、さみしい。やっぱり憎いよ、黒いアレ。
このごろでは、何か字が書いてあるものを読む、って言ったらほとんど漫画ばっかりだったけど(漫画でさえ、たまに読むのがめんどいなー、と思うときもあるし)、子供のころは結構よく本を読んだりしていて、お父さんからも、伝記とかよくわかる子供大百科みたいな本とか世界名作集のようなものをいっぱい与えてもらった。そういうのをよく読んでいた。だからほかの成績は全然悪いんだけど、国語だけは、相対的に見れば結構いい。まあ、今ではちゃんと勉強してないし、まともにする気もあんまりないけど、でも頑張って本を読もうと思えば読むだけの根気はある。それで、わたしは心理学の入門書みたいなものをいくつか適当に買って読んでみた。素人向けのものだったりするし、意外と中身は見当違いの本だったりしたので、読んでるそばから、がっつりとした心理学の解説に関しては、何がどうとか忘れちゃってるしよく理解もできないのだけれど、黒いアレは、わたしの精神的な歪みによって出現している、という勝手な推測から、読み始めてみたのだ。
でもまあ、そうしたお勉強の結果としては、フロイトとかユングとか強迫観念とか、無意識とか、性がどうとか肛門期(この言葉の響きだけで、お腹がぞわぞわした)とか、オイディプスなのかエディプスなのか違いがわかんない、そういうなんかキーワードめいたことを何となく知った、というか、知ったような気になっただけだ。おしまい。
結局のところ、わたしの精神的な異常ってやつが形になって、そんで目の前に現れて、それをわたしが硬いとか勝手に思ってしまっているのかもしれないけど、それもどうだかなあ、って感じなのだ。かなり疑問。でもその一方で、手触りとして、リアルな実感として、硬い! 前が全然見えない! 前に進めない! という状態になってるのは、実体は関係なく、すべてわたしの精神的な問題だという可能性としてなくもない、とも思ってる(どっちなんだ???)。やっぱりちょっと心理学の本を読んだだけでは(ましてや、図解! よくわかる心理学! みたいな本ばっかりだから)、何もよくわからない。もちろん、わたしの頭のできの問題もあるはずだ。勉強したくないけど、それでもちゃんとしとけばよかった。
そんなわけで、授業中にも、休み時間の合間あいまにも、ちょくちょくそんな心理学的な本を読んでいたら、そっち方面に進学しようとしている、とか思われたらしく、里香から、モモは自分がカウンセリング受けるべき! みたいな、もちろん冗談なのだけれど、そういうからかいがあって、周りの友達も、げらげら笑って、わたしはかなり傷つく。あんまり親しくない、よく知りもしない男子も馬鹿声出して笑っていて、傷つく。で、わたしは本物の天然ちゃんみたいに、ぷい、と本を放り投げて、教室から飛び出してしまう。誰もわたしを追って来ない。ちょっと、ムキになりすぎちゃったなー、とか思いつつ、廊下をたたたと速足で歩いていると、また例の黒いアレが、ぼわわわんんと(やっぱり音は鳴らないけど、イメージ的に)現れて、わたしはいきなり両手両足で這い出して、ずりずり進む。それを見て違うクラスの男子が、大声で笑う。やっぱり、当然、わたしは傷つく。でもすごく腹を立てていて、黒いアレを過ぎてからも、もうほとんど意地になってるわたしは、そのままずりずり這いながら廊下を進む。案外わたしはずりずり這って走るのが得意みたいで、そんな隠された才能を今さら発見してしまっても、ちっともうれしくない。そんな能力いらねー、まじでいらねー、すげーどうでもいい、とか無頼感丸出しでずりずり走り、あやうく調子に乗って、わおん、とか吠えそうになるけれど、すんでのところで止める。だけど、廊下にいる生徒たちから注目を浴びてしまって、自業自得とは言え、すごく恥ずかしい。わたしはいつも、黒いアレが現れると、廊下とか体育館とかグラウンドとか屋上とか音楽室とかトイレとか階段とか、とにかく学校では(もちろん学校だけじゃないんだけど)ひたすらかがんだり、しゃがんだり、這いつくばったり、飛び越えたり、お腹痛い、と突然叫んだりしているので、結構な有名な、頭おかしいキャラとして認識されているのかもしれない。と改めて思ったりして。
廊下を這うのをやめて立ち上がり、手をぱんぱんと払う。この動作も、いちいちすごい大げさだったりする。そうやって確認するのも腹が立つし、だるいし、なんか、疲れる。そして、さみしい。わたしは悲しい。わたしの後ろでは床上何十センチか空いただけの状態で、廊下全体のほとんどを黒いアレが塞いでいる。それを見て、うわー、と思う。あの下くぐり抜けてきたんだ、みたいな、何だか、苦労して山を登って、山頂から広がる景色を見下ろしたような、変な感想を持つ。
すると黒いアレを抜けて、里香が走って来るのが見える。ぼわんと(これは本当に音が鳴ったような気がした!)、黒いアレから、まずグーになった手とかが出て、里香の丸いけど、すごいちっちゃい顔(うらやましいと思っているけど、ちゃんと本人に言ったことはない。言えたことがない)が出てきて、それが一瞬、ぐにゃん、と崩れて、わたしに向かって走って来る。ごめん、モモ、ごめーん、とか言って、それはもう、すごく熱い瞬間がわたしにやって来る。ええー、なんだか青春だなあ、とか思うけれど、全然事態は解決されてなくて、里香の後ろの黒いアレは全然消えてくれないし、今から、抱き合って、ごめんね、ううん、こちらこそ、とか言い合うだろうけれど、そしてそれはわたしにとっても本心だけど、いざ教室を戻ろうとするときに、またわたしは廊下をずりずり這わなきゃいけないのか、と思うと、ちょっと気が重い。ちょっと先の未来に、胸が苦しい。めんどくさい。だけど里香が走って来てくれて、すごく、うれしい。ちょっと、ここ最近ではないくらいに、うれしい。
わたしが必要なのは、心理学とか精神分析的なものじゃなくて、こういう、怒ったあとで、救われる、許したり許されたりする、瞬間なのかもしれない、とか思ってるそばから、心配そうな顔と、やれやれ、といった表情をしながら、ヤッピーとかヤスちゃんも、黒いアレを抜けてやって来る。何か知らないけど、さっきのどうでもいい男子も来てるし。うわああ、黒いアレから出てくるときの、みんな、すげー不細工じゃん! とか思って、けらけら笑いそうになるのと、泣きそうになるのを両方我慢して、わたしは彼女たちのとても安っぽい友情を愛おしく思う(後ろからついてきた男子のことはよく知らないから、別! 違う男子だったら、んー、わかんない! っていうか柏原くんよ、何故来ない!)。すでに里香はわたしの腕を取って、やたらと力強く、むぎゅうううと握ってくる。ちょっと、なんか、頭おかしいくらいに痛いんだけど!
ごめんね、ううん、こちらこそ、と予定調和っぷりを開始して、わたしたちは笑う。何がおかしいのか、全然わかんないし、わたしが本当に笑いたいのは、黒いアレから出てくるときの、そろいにそろった不細工な顔なのに、そうじゃないことで、わたしたちは笑う。黒いアレのこっち側で、涙を我慢して、けらけらも我慢して、わたしは、笑う。笑おう。笑いたい。