「フェミニストの概念があるのか、お前には」
鬼が殴りに来た。鬼と言えば、赤か青と相場が決まっているものと思っていたが、銀色だった。全身が銀色なので、しゅっとしていた。そのせいか、どこか鬼らしくなかった。それでも角は生えていたし、その周りはもじゃもじゃの髪で覆われていたし、虎柄のパンツを履いていた。あと、ちゃんと金棒も持っていた。
鬼は丁寧にピックを使ってドアを開けたらしい。わたしが帰宅したときには部屋の中にいたのだが、まったく荒らされていなかった。鬼はベッドの上であぐらをかき、腕を組んでいた。金棒はベッドに立てかけてあった。思った以上に太くてごつごつとしている。まさに、ザ・凶暴、と言えるほどの太くて硬そうな金棒だ。
鬼はわたしを殴りに来たと宣言した。わざわざ宣言するなんて警察みたいだな。わたしは逃げようか考えたのだけれど、鬼はものすごい足が速いんだろうな、だって鬼だもんな、銀色だもんな、ロボっぽいもんな、近未来っぽいもんな、と思って結局やめた。とりあえず様子をうかがうことにした。銀色の鬼はとにかくしゅっとしていた。もしかして車よりも速いんじゃないだろうか。
試しにお茶を出してみた。鬼はそれを飲んだ。それからカステラも出してみた。文明堂のやつだ。たまたま仕事先で先輩からおすそわけされたのだ。鬼はそれも食べた。もっと出したらそれも食べた。フローラン・BB特製のふわふわロールケーキも食べた。パステルのプリンも食べた。スーパーで買った桃太郎トマトを出したらそれも皮ごと食べた。
どれもおいしかったのだろう。鬼が満足そうな表情を浮かべるのをわたしは見逃さなかった。鬼は気づかれていないと思っているようだが、確かに顔がにやけていた。おいしいものが次々と出てきて、きっと喜んでいるのだ。わたしは実感した。鬼だって油断する。アイドルだって恋しちゃう、みたいな言い回しだな、と思ったけれど、口には出さなかった。そもそもそんな立場ではなかった。わたしは殴られると宣言されたのだ。そこでまた基本に戻り、芋ようかんを出した。これは舟和のやつだ。いよいよおいしそうな表情を隠しもせずに鬼は食べた。
わたしの部屋には甘いものがいっぱい置いてあった。これはたまたまだ。数日前から、カステラのようにいろいろなものを知り合いに会うたびにもらった。賞味期限などまるで考慮しないペースで、様々な種類のお菓子が送られてもきた。おかげでわたしは鬼が殴ろうとするまで時間をかせいでいる。千夜一夜物語みたいだけども、わたしは王妃ではないし、ここはアラビアでもない。わたしには物語を紡ぐことなんてできない。メタ的な意味ではなくて、本当に何一つできない。ただ食べ物を与えるだけだ。そうして未来を引き延ばそうとしているだけなのだ。
そうは言っても物理的に限界がある。お菓子がなくなったわたしは手早く料理を始めて、おひたしから炒め物から揚げ物、煮物まで冷蔵庫にあるものを使って作った。作ったそばから鬼は食べた。銀色の鬼はゆっくりとわたしが作った料理を平らげていく。少しもお腹が苦しくなった様子は見えない。そのうち炊き込みご飯ができあがり、パスタはゆであがり、ラザニアが焼きあがった。そしてわたしはスペアリブに取りかかる。次から次へと作ったこともない料理ができていく。わたしは自分がこれほど手際よく、様々な料理を作れることを知らなかった。秘めたる能力を鬼が殴りに来たことによって開花させられるなんて、割に合うのか合わないのか、料理で忙しいわたしには判断を下せなかった。
そして、ついに食材は尽きる。お酒があればそれも出したのだが、わたしはまるで飲めないので部屋には置いてなかった。一連の知り合いからの贈り物にもお酒の類いはなかった。デザートは最初に出してしまっている。わたしはもう一度お茶を出したが、それで葉っぱもなくなった。
最後のお茶を飲んだ鬼はこそっとお腹を撫でた。やはり満腹なのだ。わたしは台所で尚も作業をしている風を装っていた。まだまだ料理は出てきますよ、という雰囲気を醸し出した。しかし鬼は部屋から、わたしを殴る旨を改めて宣言した。堂々とした威厳のある声だった。そして鬼は再び、こっそりとお腹を撫でた。
銀色の鬼はもうすぐわたしを殴るだろう。わたしはその代償として、料理名人となった。その才能を知った。鬼が手加減というものを知っていればいいのだけれど。それに、鬼に女性をいたわる気持ちがあればいいのだけれど。あとは……これが一番の問題なのだけれど、殴るのに金棒を使うんじゃなくて、素手だったらいいのだけど。いったい、鬼はどっちの意味で言っているのだろう。わたしには怖くて尋ねられない。