「ん、飲み」
父が「ぬ」を飲みこみづらそうにしていたので、急いで水を汲んで渡してやった。父はコップを受け取り、水の力を借りて「ぬ」を飲みこんだ。かなり苦しそうだったけれど、喉の奥さえ通ってしまえば何とかなる。しっかりと飲みこんだあとで、父は口の中を開けて何も残っていないことをわたしに見せた。そして顔をしわだらけにして笑った。
父は数週間前から急に無口になった。以前はよく喋り、その話が本筋からずれて、さらにその話が枝葉に及んでもまだまだ続く、話はどんどん分裂していく、というのがお決まりだった。そんな父が今や必要なこと以外は喋らない。急激な変化にわたしも心配していたのだけれど、父はにこにこしているし、特別機嫌が悪い様子はない。以前は夕飯どきでも食べることもそっちのけで、喋りに夢中だった。それが嘘のように、食卓の父は無口だ。おかげで一人だけ、食べ終わるのがやたらと早くなった。
父の変化は結構前からわかっていたけれど、その原因に気づいたのは十日ほど前だった。夜中、トイレに行こうと一階に降りたら、居間で父が「そ」を飲みこんでいた。苦しそうに身体を震わせて、嗚咽の声も漏れている。わたしが慌てて駆け寄ると、父はふごふごと今にも窒息しそうなほどだった。「そ」は飲みこみ切れずに戻されて、口の中からもわずかに見える。そ、そ、そ、と痙攣でもしているように声が震える。父はそれを押し込もうと必死だ。指まで使っている。わたしはどうやって助けたらいいのかわからず、ただ声をかけ続けた。押し戻そうとするそばから、「そ」が逆流してくる。それを父は死に物狂いで抑え込もうとするのだった。
わたしが気づく何日も前から、父は夜な夜な、苦しみながらもいくつかの文字を必死で飲みこんでいた。無口にもなるわけだ。話を聞くと、父はすでに「や」も「り」も「ら」も「は」も「ゆ」も「ぎ」も「よ」も飲みこんでいた。や行は全滅だ。なかなか伝わりにくかったけれど、それでも父はまだ飲みこみ終えていない文字を駆使して、ゆっくりと説明してくれた。話の間にも「そ」を戻しそうになっていた。口の中に押し戻されてしまうと、そそそそそそそそそそそ、と苦しげな声をあげた。
母には話さないでほしい、という趣旨のことを父から頼まれた。それは母に対して不誠実な気がした。しかし父はこれにはわけがあるのだと言って聞かない。ひたすら喋らないように頼んでくる。その割にいつまで経っても飲みこみ始めたそもそもの理由を話してくれない。
結局、父はその後も夜中に飲みこみ続けた。父が何を飲みこんだのか、わたしはすべてを正確に把握していない。それでも父はより無口になっていく。もはや単語として意味をなさない文字の切れ端などを口にするだけのときもある。
母は母で父の様子をそれほど心配していない。寡黙になったことを、夏が暑かったせいかしらねえ、などと頓珍漢な理屈で理解している。父が夜中に何をしているのか母は知らないのだ。わたしは愚直にも父との約束を守って、母には何も説明していない。母の様子を見る限り、こうして勝手に納得させているほうがいいのかもしれない。
そもそも母は夜中、父が飲みこんでいるときにトイレに行かないのだろうか。父のいびきがうるさいということで、数年前から母は別室で寝ていた。しかしトイレに行くためには母も居間を通らなくてはいけない。わたしなんて毎晩のようにトイレに行きたくて目が覚めるし、一階に下りると父が何かしら飲みこんでいるところを目撃してしまう。今では水を用意したり背中をさすったり、手助けまでしている。それでも母は現れない。父は苦しそうに時間をかけて飲みこむ。それは苦行のようにも見える。無事に飲みこみ終えたあと、父はしばらく腹をさする。苦しいのが治まったら治まったで、面倒臭そうに手を振り、とぼとぼと自室に引き上げる。母はその間も現れない。
よく眠れているのかと尋ねたら、母は、普通、と答える。普通の状態がどういうものなのかわからないけれど、わたしは何も言わない。不実だと思いながらも、父の飲みこみのことは母には黙っている。
まだまだ父は飲みこんでいく。夕食の間、わたしと母でよく喋る。父のお喋りが移ったわけではないのだけれど、わたしたちが話していないと食卓があまりに静かになってしまうので、意識してか、何やらどうでもいいようなことをべらべらと口にする。ほとんどが思いつきのように、わたしと母の間で言葉がこぼれ、そして弾む。父が、少し黙れ、という感じでぐっとにらむ。しかし声には出さない。多分喋ろうと思ってもまともに喋ることができないのだろう。
父に残されている文字の一つに「ん」がある。これはとにかく飲みづらい。何度も断念しているのを目撃している。父はときどき、んんんんんん、とうなる。それを見て母が笑う。父がふざけていると思っているのだ。父はあわよくば食事中でさえ、「ん」を飲みこもうとする。母はそれに気づかない。食卓が、んんんんんんん、と騒がしくなる。母はくすくすと笑う。わたしは母の鈍感さが気になって仕方がない。父の文字はどんどん少なくなっている。母は笑いの空気を引きずりながら、わたしにやたらと話しかけてくる。父がその隣で「ん」を戻す。父の口の中で「ん」が転がる。ずっと話すのに夢中だった母が芋の煮物にようやく手を伸ばす。母は芋を一口で飲みこみ、そして父は、んんんんんんんんんんんんんんんんん、と喉を震わせる。