「光」

ひまわりの花を持って、娘がオレの寝室に入って来た。オレはうとうとしていたが、ドアが開く音で目が覚めた。オレはかなり神経質なのだ。娘は、したした、と足音を鳴らしながら、遮光カーテンでほとんど真っ暗な部屋の中に入る。ベッドのすぐ近くまでやって来ると、とうち、とうち、と声をかける。オレはすでに薄眼を開けていたから、娘が、とうち、と呼ぶ度に、手にしているひまわりが揺れるのがぼんやり見えた。ひまわりは小さくて、黄色い花びらも、少し垂れているようで元気がない。それでも娘が手にするひまわりは揺れる。とうち、とうち。娘はオレのことをそう呼ぶ。とうちゃん、と言えなくても、パパとか、おととなどと呼べないのか、それがもうオレのあだ名みたいになっているのか。いずれにしても、響きは悪くない。
 娘はあまりにも小さな右手でオレを揺らして起こそうとする。あまりに微力で、ただ手を当ててくねくねと動かしているようにしか感じられないが、オレはそれで目が覚める風を装う。もっちゃりとした眠気を含んだ声色で、娘の名前を呼ぶ。娘はオレを揺さぶったほうとは違う手で、握っていたひまわりをにゅっと差し出す。ひどく真面目な顔をしている。ひまわり。娘は随分はっきりとそう言う。オレは夜の仕事続きで眠くてたまらないのだが、ひまわりは薄暗闇の中、くっきりと目の前に浮かび上がる。オレは身体を起こして、娘の小さなひまわりを受け取る。オレにくれるのかと尋ねると、娘は、こく、と頷く。ありがとう。娘は笑う。ふにゃり、と娘の顔のあらゆる線が揺らぐ。頭が重くて肩が痛い。腰もだいぶおかしなことになっている。オレの身体はぼろぼろだ。
昨日はずっと作業部屋にこもり、箱を組み立てていた。箱を組み立てるのは全神経を使う。箱を使うものにとって、用途は様々だ。しかし箱を組み立てる側としては、それを事前に想定して、あらゆる念の込め方をしなくてはならないのだ。贈答用、保管用、観賞用、それにいたずら用もあるだろう。それは使う側が決めるもので、こちらの領分ではない。しかし箱はきちんと念を入れておかないと、何を入れても収まらないのだ。すぐに中から飛び出てしまう。空き箱としても機能せず、箱としての形を失ってしまう。オレはそのために箱をしっかりと、それがしかるべき用途でしかるべき状態で収まるよう、空っぽさえも入れておけるように、念を込めて組み立てる。あらゆる目的や利用法に耐えられるように、丁寧に時間をかけて組み立てる。箱の素材や大小に関わらず、オレは同じように念を込める。
 おかげでオレの身体はひどく疲弊する。これは体力と精神力のいる仕事だ。収入も割がいいわけではない。しかしオレは誇りをもってこの仕事に取り組んでいる。オレは娘と二人、生きていかなければならない。オレは二年前に妻と死別した。交通事故に遭い、妻の身体はばらばらになってしまった。あっけない事故で、簡単に、妻の命は失われた。あっという間に妻はこの世からいなくなった。そのときオレは、箱を組み立てる作業を終えて、深い眠りについていた。だからオレはまともに妻の死に立ち合っていない。オレは妻が死んだとき、無意識という闇の中にいた。それ以来、オレの眠りは浅くなった。ちょっとしたことでもすぐに目を覚ましてしまう。
妻の遺体は誰もちゃんと見せてくれなかった。遠巻きに見せてもらったものは、模型のようでもあった。なんとかあらゆる部分を継ぎ足して、人の形にしてみた、という感じだった。だけどオレはそんな妻を送り、そしてまだほんの赤ん坊だった娘と二人で生きていくことになった。
 取引先の山本さんが、しばしば娘の面倒を見てくれる。この日もオレが作業に集中できるようにと、山本さんが娘の相手をしてくれていた。オレは山本さんのことは好きだが、それほどシリアスに考えるのはやめようと思っている。オレはまだ妻のことを心から愛しているのだ。山本さんはオレの仕事ぶりをとても評価してくれている。熱心にオレが組み立てた箱をあちこちに売り込み、上司にも報酬を増やすように交渉してくれる。挙句、娘の世話までしてもらっている。オレは山本さんのおかげで、箱の組み立てに没頭することができる。
 すでに山本さんはオレが組み立てた箱を会社に持ち帰ったのだろう。一人残された娘はさみしくてオレの寝室までやって来た。そしてひまわりを手渡す。オレはそれを受け取った。娘は、オレに向かって、匂いを嗅いでみるように言った。言葉はたどたどしいが、きっとそういうことだ。オレはひまわりに鼻を近づけてくんくんと嗅ぐ。花の匂いは何もしない。むしろ青臭く、葉や茎の汁の匂いがする。娘が力強く握りしめたせいだろう。娘は、匂いを嗅いでいるオレの姿を見て満足そうな表情で微笑む。オレの顔のすぐ近くではひまわりの花がうなだれている。オレは何故か妻のことを思い出す。妻のばらばらに千切れたであろう、想像上の遺体のことを思い出す。それが焼かれて灰になるところを思い出す。オレは泣くのを堪える。泣けたらいいのだろうが、娘の前では無理だ。まだオレは泣きたくない。本当に心から泣くのは、妻のことを忘れる最後の瞬間だと決めている。妻に対する思いが消える、その最後のひと押しの涙だけしか、流したくなかった。そんな日が来るのかオレにはわからないが、そうしたかった。ひまわりの花に押し付けるように花を近づけ、ひくひくと震わせる。それを見て、おひさまの匂いがするだろうというようなことを娘が言う。ひまわりの花が太陽の香りだなんてどうして知っているのだろう。それが事実かどうかもオレにはわからないが、どうしてそんなことをオレに言うのだろう。山本さんが話してくれたのだろうか。
オレは立ち上がり、ベッドから抜け出す。娘の笑顔がぱあっとさらに明るいものへと変わる。アイスを食べたいようなことを口にして、娘がオレの腿に寄り添うように近づく。オレはアイスをあとで買いに行くことを約束する。それからオレは遮光カーテンを開ける。外はまだまぶしく、光が差し込むだけで一気に室内の温度が上がる。オレの瞳孔は少し馬鹿になり、一瞬、ぐわわ、と開く。じりじりと焼けつくような音がする。光の奥でいろいろなものがよぎり、あるものは溶けた気がする。だけどそれも一瞬の幻影であり、錯覚だ。オレの目はやがてバランスを取り戻す。娘は、とうち、とうち、とはしゃぐ。オレの握ったひまわりの花びらが、しおれていた先が、むくり、とわずかに起き上がる。それは奇跡のようだが、とても、理にかなっている、とオレは思う。まだ鼻先には青い植物の匂いが残っている。ひまわりの花がまた少しだけ起き上がる。それを見た娘が、とうちゃ、と呼び方に少し進化を見せる。

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