「セレブリティ」
立派なつくりの門の中に入ると、庭には大きな虎が寝そべっていた。眠っているのか起きているのかわからず、わたしはおそるおそる近づいた。足音を立てないように息を止めて一歩ずつ前に出る。虎の顔はこちらからは見えない。虎の体内には獰猛さがたっぷり詰まっているようだ。恐ろしさで身体がぞわっと震える。肌の上にぶつぶつとした恐怖が浮かび上がってくる。虎のしま模様さえも凶悪そのものに見えた。わたしはうまく虎をやり過ごしたかった。
そもそもわたしはリスを見に来ないかと誘われたのだ。虎のことなんて一言も聞いていない。数日前、わたしはロビン・ウィリアムズに町で声をかけられた。ロビン・ウィリアムズはピエロみたいな赤い鼻をつけていた。それを見て、あ、パッチ・アダムスのやつだ、とわたしは思った。ロビン・ウィリアムズはわたしの考えていることがわかったかのように、頷いた。そうだよ、あのときのやつだよ。一年に何回か、つけて歩くんだ、と言った。彼が流暢に日本語をしゃべることに驚いた。だけど偽物だとは思わなかった。テレビ画面でしか見たことがなかったけれど、明らかに本物だった。おまけにデ・ニーロの真似さえしてくれた。
わたしたちは人通りの多い町中に立ったまま、しばらく雑談をした。ロビン・ウィリアムズは近所に住んでいるらしい。一年の半分くらいは日本で暮らしているのだけれど、誰も自分のことを気づいてくれないと嘆いていた。スターにはスターの悩みがあるんだろう。わたしはロビン・ウィリアムズの苦悩がわかる気がした。わたしはただのしがない事務員だけれど、それでもわざわざ赤い鼻をつけて歩くロビン・ウィリアムズに対して申し訳ない気持ちさえ抱いた。そもそもわたしだってロビン・ウィリアムズのことを特別に好きなわけではなかった。何本か出演作を見たけれど、アンドリューとかストーカーなんて糞みたいな映画だと思っていたし、評価の高いいくつかの映画だって好きじゃなかった。パッチ・アダムスだってそうだし、グッドウィルハンティングだって何がいいのかよくわからない。ガープの世界は好きだけど、あれは原作の方が二百倍ましだと思う。
そんな忌憚のない感想をわたしは本人に向けて話した。わたしは随分正直な性質なのだ。ロビン・ウィリアムズはにこにこしながら聞いていた。いろいろ僕の作品を観てくれているんだねえ、とても、とても、うれしい。結局お茶を飲みにオープンカフェのお店に入って、わたしたちはお喋りを続ける。そこでロビン・ウィリアムズ自身が気に入っている出演作がジュマンジだという話も聞いた。もちろんポパイはポパイで思い入れはあるけれどもね、と何故か悲しそうな顔をしながら言った。
わたしはロビン・ウィリアムズとそのままホテルに行って、寝た。うれしくもなかったけれど、後悔もしていなかった。ロビン・ウィリアムズはばっちりやさしくわたしのことを気持ちよくさせてくれたし、わたしが達するまで辛抱強く待ってくれた。
そのあとベッドでロビン・ウィリアムズは珍しいリスを飼っているから今度家に見においでと誘ってくれた。そのリスは水色をしていて、ちょっとした子犬くらいの大きさがあるらしい。ときどき、ソラシ、ソラシ、ときれいな声で鳴く、本当に珍しいリスだ。やはり大スターはそんなペットだって飼えるものなのだ、とわたしは納得して、必ず訪問すると約束した。自宅に誘われるようになってようやくわたしはロビン・ウィリアムズのことを結構ちゃんと真意として、いいな、と思う程度にはなっていた。わたしは何ごとにおいても、スロースターターなのだ。
そしていざ家を訪れたら、虎だ。
ロビン・ウィリアムズ邸の敷地はしっかりとした塀に囲まれていた。周囲と比較すると浮いているくらい立派な建物だった。門構えだって威厳がある。チャイムを何度か鳴らしても返事がなかったので、わたしは勝手に門の中へ入った。
虎は本当に凶暴そうだった。わたしは虎の真後ろまで忍び寄っていた。虎はぴくりとも動かない。玄関にたどりつくには虎の横を通り過ぎなくてはならない。虎が目をさましたら、一発で終わりだ。わたしはそろりそろりと歩く。寝そべっている虎の横をゆっくりと通りすぎる。わたしは虎の方を見ながら、背中を向けないように後ずさりする。虎はうずめていた顔を上げる。そして目が合う。ゆっくりとした動きで虎が体勢を変えた。わたしは恐ろしくて逃げることもできなかった。いざ目が合うと一歩も動けない。もうダメだ、食べられるかもしれない。ロビン・ウィリアムズはこの状況を屋敷からでも見ていないのだろうか。助けてくれないのだろうか。あるいはロビン・ウィリアムズ自身が虎に食べられたのかもしれない。
虎は少しずつじりじりとわたしとの距離を縮める。虎の口からは少し茶色がかった歯が見える。こんな危機的な状況だと言うのに、わたしは些細なところに目がいってしまう。虎が口を大きく開ける。右側の歯が一本だけやたらと白くて、それはわざとらしいくらいに、きらりと光る。わたしはもうダメだと目をつぶる。そのとき虎が声を出す。
虎は自分がロビン・ウィリアムズだと言った。あまりに気持ちよかったので昼寝をしていたのだとこともなげに話す。しかし見た目は虎そのもので、凶暴さだとか野性だとかそういう要素で溢れている。わたしは首を振る。虎の歯が一本だけやたらときれいなのが何故だか許せない。再び虎は自分がロビン・ウィリアムズだと言う。日本語は流暢だ。ロビン・ウィリアムズは自分が虎であることを少しも問題にしていない。わたしはどうして虎なのかと尋ねるけれど、まともな答えが返ってこない。虎というかロビン・ウィリアムズは前足をぺろりと舐める。当たり前のように獣の匂いしかしない。スターは大変だなと思おうとするけれど、誰がそんなこと本気で思えるというのか。わたしはしがない文房具メーカーの事務員なのだ。わたしは浮かれて、ひらひらとしたワンピースを着てやって来た。そんな自分がとても恥ずかしい。
ロビン・ウィリアムズが吠える。それは軽く吠えたつもりなのだろうけれど、わたしの全身が総毛立つ。さてと、今度撮る映画の話でも聞かせてあげようかな。ロビン・ウィリアムズはそんなことを平気で口にする。白い歯がきらりと光る。
まさか……虎役なのか?