「魔女と海」

 魔女と二人きりで狭い小さな船に乗る。船はわたしの故郷へと向かう。わたしの故郷はいつも雪が降っている。一年中、白く覆われた極寒の大地を目指し、魔女とわたしは青い海の上をゆっくりと進む。
 魔女はときどき食べ物を出して一人で食べる。食事を終えると暇つぶしのためなのか、小さな青い鳥を出して、消す。そしてまた青い鳥を出して、消す。魔女は呪文を唱える以外に言葉を発しない。誘惑もしてこない。

 三日目の夜、魔女は間違えて、虎を出した。おかげで船が沈みかかった。船の推進力と虎の野性が反発し合って、わたしたちは海の中へのまれかかった。魔女は正直あわてていた。明らかに呪文とは違う言葉を大声で叫んでいたからだ。パニックに陥りながらも何とか虎を消した。船は浮力を取り戻し、再び故郷へ向かって進みだした。結局、わたしは虎に四回ひっかかれた。噛まれなくて良かったが、血が止まらない。
 反省したのか、魔女は動物を出さなくなった。食べ物を出すときも慎重だった。相変わらずわたしには何もくれない。まだわたしは血が止まらない。魔女は血を止めてくれない。あまりに暇すぎて泣きたくなる。雨がぽつぽつ降って来る。魔女は呪文を唱えて傘を出す。しかしわたしを中に入れてくれない。わたしは雨に濡れる。冷たい雨粒が虎にひっかかれた傷に染みる。

 七日目にはわたしは魔女を呪おうと考えているが、わたしには自前の呪い方しかわからない。魔法のことはよくわからない。クソめ。ビッチめ。わたしは頭の中でののしる。しかし魔女はまるで気にしていない。そして食べ物を出して、一人で食べる。余裕が出てきたのか、また青い鳥を出して、消す。鳥を出して、消す。船がゆっくりと旋回して、進路を変える。異様に突き出した巨大な半島を避け、わたしは故郷へ向かう。

 十二日目の夜にようやく故郷の港が見えた。夕暮れの中、灯台の明かりがじんわりと滲んで見える。陸地は分厚い雪で覆われている。海から眺めるのは初めてだったが、懐かしい風景だった。魔女は空を見上げ、何やらつぶやいた。それが呪文なのか独り言なのかはわからない。まだ身体のあちこちから血が流れている。腹が減っている。寒さで震えている。海の上を粉雪が舞う。風がないのがありがたかった。結局魔女への呪い方はわからなかったが、故郷に到着すればもうそんなことを考えずに済む。船が進む。ようやくわたしは故郷に戻って来たのだ。
 そんなときになって再び魔女が虎を出す。船は沈み出し、虎は暴れる。だから、それはわざとなのか。わたしは魔女にきつく怒鳴りつける。魔女はごにょごにょとよくわからないことを口にする。虎は消えない。きっと虎を消すのが苦手なのだ。故郷まではもうすぐだが、船から降りて泳いでいくにはまだ遠すぎる。おまけに雪の塊が混じった海だ。急がないと船が沈んでしまう。わたしは魔女も、虎も、雪さえも消してやりたい。灯台のほうから鐘の音が聞こえる。結婚式のようだとわたしは思う。虎が暴れる。しかしわたしのことをひっかかない。むしろ魔女に噛みつこうとしている。船が少しずつ沈んでいく。今や魔女は虎を消さない。抵抗もしない。船が完全に沈み切ってしまう前に陸地へたどり着きたい。
 わたしは適当に魔法の言葉を唱えてみる。もちろん虎は消えない。魔女だって消えない。沈みかけた船は浮き始めない。ただ、食べ物が出てきた。ほかほかだった。わたしは、そうじゃないんだ、と言いながらも食べ物を口に運んだ。魔女は虎に襲われるのを無抵抗で受け入れながら、やるじゃないか、という視線をわたしに向ける。船は沈みながらも、いよいよ故郷に近づいている。

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